シングルになる 離婚すると決めるまで

離婚
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これから何回かに分けて、離婚するにあたって考えたことなどを書いて行こうと思います。

家庭内のことはそれぞれなので、私がこうだったから他の人に当てはまるというものではないですが、こんな私の経験でも誰かの、何かの、お役に立てたら嬉しいです。

もちろん、へぇーと思っていただくだけでも。

今回は背景や、経緯などを自分の頭と心の整理のためにつらつらと書いていくので、よろしければお付き合いください。

私のこと

まずは私自身のことを少し。

小さいころから一般的に言う「いい子」で、どちらかと言うと優等生タイプ。長女気質で、慎重派で内弁慶。チャレンジは苦手で、常に無難な道を歩いてきました。

安きに流れる性格なので、「がんばったらできるかも」くらいのことにも手を出さず、自信のあることだけやって失敗しないようにしていくスタンス。とりあえずみんなの行く方向に向かっていればいいだろうという感じでした。

いい子でいたのも、その方が生きやすかったからです。

尖って目をつけられてる子たちを見ては、なぜそこまでして…と思う反面、憧れもありました。が、自分はそちら側にいくメンタルは持ち合わせていませんでした。

こどもの頃、困らないくらいには勉強ができたので、地元のやや進学校に行きました。高校時代はとても楽しくて、遊んでいたら成績がガタ落ちで担任に居残りを命じられ放課後勉強することに。

居残りのおかげでなんとか受験までに巻き返せたので、大学進学のときは少し冒険して、関東大学を選び、進学。

実家が少し厳しめだったので、一人暮らしをして自由に生活してみたいという気持ちもありました。

地方から人が集まってくる関東の大学だったので、周りも一人暮らしが多く、門限とは無縁の生活を満喫しました。サークル活動とバイトと遊びと時々学校で、あっという間に就活の時期がやってきました。

就職するときは、当時はぎりぎり氷河期と呼ばれたなかなか厳しい時期だったこともあり、小学校の教員になりました。

これも易きに流れる性格が如実に出ています。

後々、この時にもっと頑張って就活をしておけば良かったと心から思いました。

元夫のこと

元夫とは大学のサークルで出会いました。

高身長でそこそこのイケメンで、当時なぜか憧れていた関西弁だったこともあり、いいなと思っていました。

付き合う決め手になったのは、当時元夫が公認会計士を目指して勉強していたことでした。

当時「公認会計士」という職業すら知らなかったのですが、自分がダラダラと生活していたこともあり、目標に向かって頑張っている姿がかっこいいなと思いました。徐々に交際に発展。

大学生の頃はずっと元夫と付き合っていました。

ちなみに途中で夫は公認会計士を断念。就活浪人をして、私より1年遅れて社会人になりました。

就職先は実家のある京都。私は関東で教員をしていたので、遠距離で3年間付き合いました。

結婚のこと

20代後半になり周りに結婚ラッシュがやってきました。

元夫とは8年ほど付き合っていたので、特に深く考えることなく、流れで私が関西に移動する形で結婚することに。

このときも「なんとなく」という感じでプロポーズなどもなく、気付いたら結婚することになっていた感じです(当時はこの人だ!と思っていたと思うのですが)。

何年か夫婦で過ごして、息子を妊娠出産しました。

息子を妊娠するまでに時間がかかったこともあって、2人での生活が長かったです。その間、徐々に会話がなくなり、旅行に行ってもちょっとしたことで言い合いになってしまうようになりました。

毎日イライラし続けて、もう2人だけの生活は限界だなと思っていたときに息子の妊娠が分かりました。

まさに救世主。そして、こどもが生まれてからの方が楽しく過ごせることが多くなりました。

すれ違い

こどもが生まれたことで、夫婦間の絆は深まったような気がしていたのですが、なかなかうまくはいかないもの。

コロナ禍、二人で家にいる時間が長くなってきて、徐々に夫の特性について気付いたことがありました。

言っていることが伝わらない。真剣に話しても目を合わせてもらえない。どうしても直して欲しいことを、何度言っても直らないなど。

私が小学校で教員をしていたこともあり発達障害について軽く知っており、日々の生活の中で、恐らくうっすらとASDの特性をもっているんだろうなということが、見えてきました。

もともと、付き合っている頃から対人関係の困難さがあることには気付いていました。また、チックの症状もありましたが、どちらも本人が気にしてはいけないと思い、言わないようにして接してきました。

困ったことがあっても、自分の選んだ相手だから仕方ないと割り切って、できるだけ分かりやすく説明したり、ストレートに要求を伝えたり、私自身がアンガーコントロールを学んだりして、なんとか今後もやっていけると思っていました。

しかし、一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、私のストレスも大きくなりました。

また、子育てに追われていたこともあり、元夫への配慮が行き届かなくなった部分もあると思います。

それらがきっかけとなり、一緒に暮らすのが苦しくなってしまいました。

別居、そして離婚

どうしても耐えられなくなり、話し合いの末、私は子どもたちを連れて家を出て、2年後に離婚しました。

厚生労働省から出ている「令和4年度 離婚に関する統計の概況」によると平成17年と令和2年を比べると、すべての都道府県で離婚件数及び離婚率(人口千対)は低下しているそうですが、およそ結婚した3組に1組が離婚していることになるそうです。

(「年齢別婚姻率の合計(平均して一生の間に結婚する回数)」に対する「年齢別離婚率の合計(平均して一生の間に離婚する回数)」の割合は、男女とも0.32 らしいです。)

でもこれ、裏を返すと3組に2組は離婚することなく添い遂げているということ。

常に王道を行く私としては、不満はあれど1/3の方を選ぶことになるとは思っていませんでした。

周りからもかなり驚かれましたし、私自身もまさか自分が離婚することになるなんて思ってもみなかったです。

本当に、人生何があるかわからないですね。

離婚の理由は広く言ってしまえば「性格の不一致」です。

自分がこうなるまでは、性格が合わないくらいで離婚とかある??と思っていたのですが、いざ当事者になってみると、性格が合わないというのは結婚生活において致命的でした。

話し合いたい私と、一切話し合おうとしない元夫との距離は離れたら最後、縮まることはありませんでした。

また、元夫と私の関係がうまくいかなくなってから、近くに住んでいた義実家の人たちの私への態度が明らかに悪くなりました。

それも拍車をかけ、私がこどもたちを連れて県外の実家に帰り、別居がスタート。2年間の別居期間の後、離婚に至りました。

物理的な距離もあり、別居してからのお互いの距離の離れ方はものすごかったので、離婚せずにやり直したいと思っている人は別居してはいけないと思います。

私は、離れてみることで、いかに一人が楽か思い知ってしまいました。

今までかなりストレスフルな日々を過ごしていたんたんだなぁと実感。

一人で3人育てる以上に、元夫との生活が大変だったんだと知ったときは驚き、もう一度一緒に住むという選択肢は早々になくなりました。

けれど実際、こどもが3人いて離婚を決めるのは、かなり勇気が要りました。

不安要素は主に3つ。

①こどものこと
②経済面のこと
③メンタル面のこと

です。

これから、離婚を決めるまでに考えたことなどを中心に、この3つを軸に書いていきたいと思います。

まずは次回、①こどものことについて。

よろしければまた、お付き合いください。

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